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横浜地方裁判所 昭和55年(ワ)759号 判決

原告

石澤レイ子

右訴訟代理人

稲生義隆

堤浩一郎

被告

片桐医院こと

片桐克之

右訴訟代理人

藤井暹

西川紀男

橋本正勝

太田真人

右藤井暹訴訟復代理人

水沼宏

主文

一  被告は原告に対し金一三一〇万三四〇九円及び内金一二一〇万三四〇九円に対する昭和五六年八月二七日から支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを五分し、その三を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。

四  この判決は第一項に限り仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し金三〇五四万六三三九円及び内金二六五四万六三三九円に対する昭和五六年八月二七日から支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  (被告の地位)

被告は肩書住所地において外科医院(以下「被告医院」という。)を開業している医師である。

2  (診療経過)

(一) 原告は昭和五三年七月頃から左膝の関節炎の診療の為被告医院に通院し、関節穿刺等の治療を受けていた。

(二) 原告は昭和五四年三月二〇日被告医院を訪れ従来と同じように左膝関節穿刺(以下「本体関節穿刺」という。)の治療を受けたところ、その日から同膝が痛み始め、同月二二日には痛みが激しくなり、更に三九度に達する高熱を発し歩くこともできない状態となつた。原告はその後も被告の指示に従つて被告医院に通院して治療を受けたが、同月二六日痛みに耐えきれず医療法人植松病院(以下「植松病院」という。)に緊急入院したところ、左化膿性膝関節炎、骨髄炎と診断され、直ちに治療を受けたが、既に手遅れの為同関節破壊に至つた。

3  (被告の責任)

関節は細菌感染に対する抵抗力が弱く、又細菌感染が起これば治療が難しく、治癒後も機能障害を残す危険があるから、関節穿刺をする場合、施術者は注射器、自らの手指、患者の注射部位及び穿刺により生じる傷口に貼付する絆創膏を完全に消毒する義務があるところ、被告は本件関節穿刺をするにあたり右注意義務を怠り右部位に付着していた細菌を関節内に侵入せしめ前記化膿性膝関節炎、骨髄炎を生ぜしめた。

4  (後遺障害)

右傷病の結果原告には次の身体障害が残存している。

(一) 左膝関節部の著しい機能障害

左膝関節の運動範囲が九〇度に制限されている上、将来加齢により右症状が悪化し、再手術により同関節の一部を機械に換えざるを得ないことも十分考えられる。右障害は自動車損害賠償保障法施行令第二条の後遺障害別等級表第一〇級第一〇号に相当する。

(二) 同部位の神経障害

左膝関節に激しい痛みがあり、これは今後も消失せずに継続すると考えられる。右障害は同表第一二級第一二号に相当する。

(三) 右後遺障害は併合により第九級に相当する。〈以下、事実省略〉

理由

一被告の地位

請求原因1の事実は当事者間に争いがない。

二診療経過

原告が昭和五三年七月頃から左膝関節炎の治療の為被告医院に通院し、昭和五四年三月二〇日被告により左膝に本件関節穿刺を受けたことは当事者間に争いがなく、右事実に〈証拠〉を総合すれば次の事実を認めることができる。

1  原告は昭和五三年七月頃転倒した際左膝関節を痛め、その痛みが治癒しないので、同月二一日その治療の為、昭和四八年一〇月以来胃腸病、肩こりなどの診療を受けていたかかりつけの被告医院を訪れたところ被告により関節炎と診断され、以後一か月に一回位の頻度で被告医院に通院し、被告により関節穿刺による関節液排除、ステロイド剤(消炎剤である。)、キシロカイン(麻酔剤である。)の関節内注入及び消炎鎮痛剤等の内服薬の投与等の治療を受けていた。

2  その後病状は順調に快方に向い、原告は昭和五四年一月一〇日内服薬の投与を受けた後しばらく痛みを訴えなかつたが、同年三月二〇日夕方再び痛みを訴えて被告医院を訪れた。

被告はいつものとおり原告の左膝関節を穿刺することにし、原告にズボンを膝上までまくり上げさせ、自らの手指及び注射部位を消毒し、市販の密封された消毒済注射器をとり出して同関節を穿刺したところ、少量の粘稠液が採取されたので関節炎が完治していないと判断し、穿刺針を刺入したまま注射器をキシロカイン入のものに交換して同剤を関節内に注入し、然る後穿刺跡を指で圧迫して絆創膏を貼付した。

3  原告は右治療を受けて間もなく左膝に痛みを覚えたが、痛みはその後徐々に増し、同月二二日夕方頃には激しい疼痛と発熱をきたし、歩行も困難な状態となつたので、翌二三日早朝被告医院を訪れた。被告は再び関節穿刺をしたところにごつた関節液が採取されたので細菌感染を疑い、原告に抗生物質を投与するとともに、採取した関節液の細菌検査を財団法人横浜微生物研究所に依頼した。同月二八日右の検査の結果、右関節液からブドウ球菌が検出されその旨被告に報告された。

原告は同月二四日と二六日被告医院で治療を受けたが、同日帰宅後激しい疼痛に耐えきれず植松病院に緊急入院した。植松健医師は原告の左膝に強度の疼痛、熱感及び腫脹を確認し、更に関節穿刺の結果膿状液が採取されたので、左化膿性膝関節炎(以下「本件疾病」という。)と診断した。その後同病院における関節液の細菌検査の結果、右疾病の起炎菌はブドウ球菌であることが確認された。

三ブドウ球菌の侵入経路

本件疾病を生ぜしめたブドウ球菌の侵入経路について検討する。〈証拠〉によれば、ブドウ球菌の侵入経路としては(1)身体他部の化膿巣から血行を介しての侵入(2)近隣の化膿巣からの伝播(3)関節穿刺の際その刺入口から侵入する等直接開放創等を通じての侵入等が考えられるところ、前記認定の本件疾病の発症の経緯(特に、本件関節穿刺後間もなく左膝が痛み始め、二日後の夕方から激しい疼痛と発熱をきたしたこと)に一般に、ブドウ球菌が関節に侵入した場合通常一ないし二日後に発熱すること(この点は証人植松健の証言及び被告本人尋問の結果によつて認める。)を考え併わせれば、右ブドウ球菌は本件関節穿刺の際その穿刺口から侵入したと推認するのが相当である。

被告は、原告が本件関節穿刺以前から既に原告の身体の他部に菌を有していてそれが患部に感染したとして前記(1)(2)の侵入経路を主張するが、本件疾病発症当時原告が身体の他部に化膿巣を有する等して保菌していたことを認めるに足りる証拠はなく(〈証拠〉によれば、原告は昭和五四年二月二七日、同年三月二日上気道炎の症状を訴えて来院したことが認められるが、本件疾病発症の三週間以前のことであり本件疾病となんらかの因果関係があるとは認め難い。)、被告の右主張は採用し難い。

四被告の過失

1  右認定のとおり、ブドウ球菌は本件関節穿刺の際原告の左膝関節内に侵入したのであるが、〈証拠〉に照らせば、右感染の原因としては(1)注射器の汚染(2)注射液(キシロカイン)の汚染(3)被告の手指、原告の注射部位の消毒不完全(消毒後の再汚染も含む。)並びに開封後の注射器の汚染(4)穿刺口に貼付する絆創膏の汚染(5)不潔な環境における穿刺後の穿刺口の汚染のいずれかであると考えられる。

2  (1)、(2)、(4)については、一般に市販の密封された消毒済注射器、注射液、絆創膏はそれぞれ消毒、滅菌等により安全性が確保されているものと一応考えられ、他に被告が使用したこれらの器具、医薬品が使用前既に汚染されていたことを疑わせる特段の証拠はない。

(5)は被告の主張するところであるが、これを窺わせるに足りる証拠はないのみならず、原告本人尋問の結果によれば、原告は本件関節穿刺後被告が穿刺口に貼つた絆創膏を三日後まではがしておらず、又被告の指示に従い少くとも当日は入浴を控える等汚染防止に気を配つていたことが認められる。

3  してみれが、本件における感染は(3)の場合、つまり本件関節穿刺に際し被告の手指、原告の注射部位の消毒の不完全(消毒後の再汚染を含めて)、開封後使用に際しての注射器の汚染あるいは使用に際しての絆創膏の汚染のいずれかが原因であると推認するのが相当である。

なお前記認定のとおり、被告は本件関節穿刺に際して消毒済の注射器を使用し、自らの手指、原告の注射部位を一応消毒したことが認められるが、開封後の注射器の再汚染防止や手指等の消毒が完全であつたことの確証がないので、右事実は未だ前記認定を覆えすに足りない。

4  ところで、〈証拠〉によれば、関節は細菌に感染しやすいので、関節穿刺を際する際施術者は注射器等の使用器具、自らの手指、患者の注射部位を厳重に消毒し、更に消毒後の汚染防止に努めるべき注意義務があることが認められる。右注意義務に照らして前記認定の感染原因を検討すれば、被告は本件関節穿刺をする際右注意義務を怠り、自らの手指もしくは原告の注射部位を完全に消毒しなかつた(消毒後の汚染防止も含めて)か、使用に際して注射器もしくは絆創膏の汚染防止を完全に尽さなかつたのいずれかの過失があるというべきである。

5  以上の次第であるから、被告は民法第七〇九条に基づき原告が蒙つた後記損害を賠償すべき義務がある。

五後遺障害

1  〈証拠〉を総合すれば次の事実を認めることができる。

原告は本件医療事故により左化膿性膝関節炎に罹患し、昭和五四年三月二六日植松病院に緊急入院し、鎮痛剤の投与、湿布等の措置を受けた後、同年四月三日関節切開、関節内洗滌、ドレーン設置の手術を受けた。しかし、なお右関節炎による関節内骨破壊が進行し、同月九日までには血行性に波及して骨髄炎を併発し、発熱及び患部の疼痛、熱感、腫脹等の症状も一進一退であつた。その後同年六月二六日再び関節切開、ドレーン設置手術が施行され、骨破壊及び骨髄炎の進行はほとんど停止し、なお患部の疼痛はあるがその他の症状については訴えがなく、同年七月三日関節液の細菌検査の結果ブドウ球菌が検出されなかつたのでドレーンが抜去され、原告は同月一三日退院した。その後現在に至るまで通院加療を続けているが、化膿性膝関節炎の結果左膝関節の変形を生じ変形性関節症が発症し、左膝の運動制限、疼痛及び同膝下の循環障害が残存した。右症状は昭和五五年一一月末日までに固定したが、固定した症状は次のとおりである。(1)左膝の伸展は正常であるが屈曲は九〇度に制限されている。(2)普段左膝内側に限局された疼痛があり時には強度の疼痛の為仕事ができないこともある。又、疼痛は膝の屈曲、伸展の際強くなる。(3)左膝下に循環障害があり、二時間程歩くとくるぶしの辺りがむくみ歩行困難な状態となる。

2  右認定事実によれば、原告の左膝の運動制限の後遺障害は労働基準法施行規則別表第二(労働災害身体障害等級表)第一二級第七号(一下肢の三大関節中の一関節の機能に障害を残すもの)に、疼痛の後遺障害は同表第一二級第一二号(局部に頑固な神経症状を残すもの)にそれぞれ該当し、左膝下の循環障害の後遺障害は同表のいずれにも該当しないことが認められる。ところで、右疼痛は常時存在し、左膝を屈曲、伸展した際あるいはそれと関係なく時に強く生じるものであるから、屈曲の際生じる場合を除き、右機能障害(屈曲制限)から派生したものということはできない。これが右機能障害と医学的にみて一個の病像と把握するに足りる証拠はない。従つて、右各後遺障害は併合して同表第一一級に該当するとみられるのが相当である。〈以下、省略〉

(佐藤安弘 小田原満知子 太田和夫)

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